UCLA 秋学期
UCLAのFall quarterは9月の最後の週に始まる。
今学期は、自分の専門分野のプロセミナーなども開催されず、
特に取りたい授業はない。
水曜日に学部関係者が発表する場であるセミナーがあるのだが、
それだけが、私には関係がありそうな授業だ。
苦手を克服する選択肢
そこで考えたのが、今まで苦手としてきた意味論の
学部か大学院の授業を聴講させてもらうという選択肢。
大学院の授業は少人数で、きらきらしてる大学院生たちに
まざって授業を聴くのは、おそらく、ストレスになるだろう。
一方、学部の授業というのも今更と言う気はする。
人間、自分の苦手なことを克服するのに時間を使うのは
無駄だということは、誰もが言っていることで、
その時間を自分が得意なことに使うべきなのは重々承知だ。
しかし、克服しようというより、何かを純粋に学び、
楽しむためにとってみたいと思った。
それこそ、その授業で学んだことが自分の研究に
プラスになってくれればもうけもの。
しかし、改めて考えてみると、私の性格上、本心では、
克服したいと思ったのかもしれない。トラウマ、劣等感などは、
やはりどうしても克服したい性格なのだ。
そういった自分のかかえているものに、勇気を出して
向き合ってチャレンジするとやはり大きく成長できる。
たとえ、克服できなくても、必ず得られるものはある。
自分の子供達も、ぜひそうあってほしいと思う。
さて、学部と大学院、どっちの授業が良さそうか、
大学院時代の友人に相談したところ、結局彼が、
UMass(マサチューセッツ大学)で教えるのに使っている
教材と宿題、答え一式、学部と大学院の分、両方を送ってくれた。
そこで、わざわざ授業に出なくても、
それを使って自分で勉強することができるし、
一時間半かけて大学に行くのも大変だし。
まあ面倒になったのだ。
そこで、結局意味論の授業に出るのはやめて、その時間、
自分の研究、やるべきことに時間を使おうと一旦は決めた。。
偶然は必然なり
ところが、この記事に書いたように、新学期がはじまって
少したった月曜日に、大家のポリーと大喧嘩をした。
そして、家にいることが居た堪れなくなり、仕方なく
大学に行くことにした日があった。
たまたまその時に、授業のスケジュールを確認し、
ちょうどその日にこの記事で紹介した友人のエラが教える
学部の意味論の授業が開催されるのを知り、
その授業に気まぐれで出ることにした。
おそらく、偶然は必然なのだろうが、
彼女に出ることにしたのは大正解だった。
まあ、息子と同い年のような学生の中におばさんが一人受講しているのは、
気まずくなくもないが、そんなことはどうでもいい。
とにかく、エラは授業を教えるのがとてもうまい。
エラの授業に感心
彼女の学者としての能力は私は分野が違うのでよくわからないが、
おそらく優秀なのだろう。ただ、研究者としての能力と、
授業を教えることは全くの別物である。まあ授業が上手い人は
講演もおそらくうまいだろうが。優秀な学者でも授業が
上手くない人はたくさんいる。
日本の学部にいた時や、ボストンの大学院にいた頃に
彼女のような授業をとっていたら、私の学者としての人生は
大きく変わっていたような気がする。その機会が今までに
なかった(というか作らなかった)のは非常に残念だ。
とにかく、彼女は情熱的で、学生が理解しているのかを
とても気にかける。難解なことも、ものすごく丁寧に
噛み砕いて説明するのだ。これだけ丁寧に教えてもらえれば、
難しいことも学生もよくわかるだろう。
また、彼女は、学生に黒板に出てきてもらい、
方程式?(equation)を解いてもらうのだ。
大学でなかなかそういった授業はないのではないだろうか。
はじめは、やります!という学生はいなかったが、
今は学生が手をあげて黒板に出てきてやるようになった。
学生の質問にも情熱的にこたえ、授業のあともずっと残って、
学生と議論し、そのやりとりを楽しんでいる。
私は彼女と一緒に帰るために、それを眺めて待っている。
私なら、6時に終わる授業なら、さっさと帰りたい
と思ってしまうだろう。しかも、その授業後に質問する学生は
正規履修している学生の彼氏で、ただ聴講しているだけなのだ。
彼女は「ああいう学生にもっといてほしい!」と言う。
意味論が大好きなのだ。すごいよな。いやあ、、、彼女には、
かなわないと思う一方、まあ自分は
授業に関しては、今の自分のままでいいかな、、と思う。
そんなこんなで彼女の授業はとても楽しい。
苦手だと思っていた私でもやる気が起きる授業であることは間違いない。
どんな先生に習うかでその教科が好きになるか、
全然違うと改めて思わされた私だった。
自分は、学生たちにその科目を好きにさせて
あげられているのだろうか?来年からは、専門科目として
言語学も教えることになっている、何人とってくれるのかもわからないが、
とってくれた学生に言語の魅力を伝えられれば何よりである。
もうひとつ後悔していること
意味論の授業を早くに受けなかったこと以外に、
授業に関して、もうひとつ後悔していることがある。
それは高校の時に、フランス語の授業をとらなかったことだ。
親の仕事の都合で中3の時に一年イギリスに行っていたことがある。
そこから帰ってきた時の、英語のテストでなぜか、点数が芳しくなく、
というかちょっと調子に乗っていたからというのが本当の理由だと思うのだが、
「成績的にフランス語が取れない」といわれて、
「じゃあ、英語で」と簡単に諦めたことがあった。
あの時、どうしてもとりたい、と言えば絶対にとれたはずだと思う。
それほど点数が悪かったとも思えない。
今なら、当然そう言うが、当時はそういうタイプではなかった。
とは言え、高校生の時にフランス語を履修したとして、
果たしてどれだけ上手になっていたかは言語習得音痴の私なので、
わからないが、まだ10代だ。今よりはましだろう。
それがとても残念でならない。
ところで、当然、UCLAから帰国後、フランス語の習得には
チャレンジした。アテネフランセにも通ったし、個人レッスンを
受けたこともあった。しかし、残念ながら、
日常会話レベルまでもいかなかった。
言語学者としては致命的だが、言語習得は得意ではないのだ。
人はできることもあれば、できないこともある。
こればかりは、事実として受け入れるしか仕方がない。
フランス語ができてれば。。。
UCLA時代、フランス語が話せていれば、私の人生は
かなり楽だったと思う。フランス語話者に囲まれていたのだから。
マリアにルイに仲のいい後輩もフランス人だ。私は英語しか話せないので、
彼らと絆を作るのに時間がかかったと思う。
今、11月にマリアのところに滞在させてもらうことも
視野にいれているのだが、そこには、フランス人の
ハウスメイトがいる。マリアも彼も家ではフランス語だ。
そこに、英語しか話せない私が行って、二人に英語を話させるのは
申し訳ない気がする。
それが、彼女のところに滞在するのが
躊躇われる理由の一つである。