昨日、9月13日に元アドバイザーのマリアが
USC (University of Southern California)の
セミナーで発表をした。私の後輩で、
同じく彼女の学生だった先生に招かれてのセミナー発表だった。
私も発表を聞かせてもらいに、同行した。
まだ大学院に入ったばかりの一年生もいたのだが、
とてもわかりやすい興味深い発表だったと思う。
マリアの発表のレジメ
私が大学院生だった時からの付き合いだから、
おそらく20年くらいは知っていることになる。
マリアは私に似て、ちょっとずぼらなところもあって、
そこが、私は、一緒にいてほっとする。
今回も発表のレジメを改めて作るというより、
自分が書いた論文を切りはりしたものに手を加えた感じだ。
それでも、発表はわかりやすく、プリント(レジメ)も
見やすくてよかった。なるほど、時間がない時はこういうのもありか。
いやいや、これは、偉い先生たちの裏技で、
経験値の低い普通の人がやるものではないか。
この気遣い、日本人だから?
ところで、私が気になったのは、彼女の発表ではない。
発表の30分前に大学に辿り着いたのだが、
まずメールにあった駐車場所の指示が
漠然すぎてわからない。送られてきたメールには、
交差する通りの名前があるだけで、十字路ののどの位置が駐車場なのかわからない。
また、駐車場があるのかと思ったが、結局は路上駐車なのだ。
それもゲートの係の人に聞いて初めてわかった。
やっと車を止めると次は、発表する建物までの場所がわからない。
私が、歩いている学生に聞いたがよくわからず、
結局はマリアがキャンパスパトロールをしている人をみつけて、
聞いてやっとわかった次第だ。
セミナーの部屋に入ってみると、
黒板は、前の授業のものがそのまま消されずに残されていて、
マリアが消し始めたので、私がそれを引き継ぎ、
彼女には発表の準備をするように言った。
私は水筒の水を持参していたが、マリアは水もないし、
おそらく後輩も持ってこないだろうと思った私は、
水が必要か彼女に確認し、あったほうがいいだろう
ということで、水を買いに部屋をでた。
発表開始まで時間もなく、水の買う場所もわからないので、
廊下にいた後輩をつかまえて場所を聞くと、
冷蔵庫に入っていると思う、という。
じゃあマリアの分を用意して行って持ってきてと伝える。
なんか、ここまできて、さすがにおかしいと思う。
まず、私が黒板を消し始めた時点で、
USCの学生なり、その場にいたUSCの教員が
立ち上がって黒板を消すべきではないだろうか。
他の大学の先生に発表にきてもらうのだ。
最低限の迎える準備はしないのだろうか?
私が黒板を消したが、私は完全に部外者だ。
水ぐらい用意しようよ。プレゼンテーションなんだから。
また、後輩が持ってきた水は、凍っていて、飲めない状態だった。
君がおおらかなのはよくわかった。でも、少し考えようよ。
取り巻きの鞄持ちの学生たち
マリアの世話を焼きながら、昔、日本人の教授で
若い学生たちをはべらせて鞄持ちをさせていた先生がいて、
みていて不愉快な気持ちがした自分を思い出した。
日本でも、ちょっと名が知れた先生などは、
おつきのものがついて回っているのをよくみる。
見ていて、いい気がしない。マリアについて回って、
世話をやいている自分もそんなふうにみられているのだろうか。
結局自分も学生と同じことをやっているんだと思うと複雑な気持ちだ。
私は彼女が大好きで大事なだけなのだ。
私が今まで見かけた、鞄持ちの学生もそうなのだろうか。
だったら、毛嫌いして申し訳なかった。
私がセミナーの主催者だったら
私が主催者だったら、駐車場の指示も、建物の位置も、
水も黒板もすべて完璧に準備すると思う。
これは、日本人ならではのものなのだろうか?
それとも私の性格なのだろうか。
おそらく、だから私はわりと仕事もできるのだと思う。
次に必要なことに気づき、先回りして考えるのだ。
挙げ句の果てには、マリアによると、
後輩は今年USC で教えるのが1年目で、
訪問者のための駐車場を確保したことがなくて、
他の人にも聞きづらいと言ったらしい。
それを無理やり駐車スペースを確保させて気が引けたと、
マリアがぼやいた。
ありえないだろう!
彼はこれからもここで仕事をしていくのだ。
その度に、講演してもらう訪問者に
いちいち自分で駐車場を探してもらうのか?
マリアが悪いと思うことはなく、彼自身のためにも、
今回駐車場を準備させたのは、いいことだ
と私は答え、彼女も一応納得していた。
私は期待値が高いのかもしれない。
でも、私にはこれくらいは常識だと思うので、
これぐらいできてないといらいらするのだ。
日本の私の勤務先の大学に新しくはいった教授にも
常にいらいらするのも同じ理由だろう。
日本人の特性なのかと思ったが、そうでもないのか?
いや、その新人はシンガポール育ちで文化は日本人ではないのだろう。
自分はおおらかだと思っていたが。。
自分は、細かいことは気にせず、わりとおおらかだと思っていた。
でも、意外にそうでもないようだ。
おおらかではなく、ずぼらなだけなのかもしれない。
つまり、思っていた自分と違うのだ。
細かいことを気にしない人でありたいのに、、。
先日のサンフランシスコ旅行でも、
友達に「知らなかったけど、レイはいろいろ気づいてテキパキ動けるね、
レイの意外な一面が知れた」と感心された。
先回りして考えられるのはいいことだと思うが、
同時に非常にしんどくもある。
いつも人にかなり気を使っていて、気疲れする。
それを、友人をロサンゼルスを案内したり、人の家に泊まったりする時に、
自分がかなり気疲れしていることで気づいた。
おかげさまで旅行から帰った今、自分は風邪気味だ。
1日のちょっとしたことだが、
自分を知るいい気きっかけになったと思う。
また、人に対して、過度に気疲れし、高い期待をして
それがはずれるといらいらしてしまう。
そういう自分からの脱出する方法を
できれば、見つけたいものだ。
かなりうれしかったこと
そんな1日でも、一つうれしかったこともあった。
後輩のUSCの先生が、彼の学生時代、UCLAのマリアのオフィスの前に
マリアと私の共同研究のポスターが貼ってあって、
彼女の部屋で、アポイントの順番待ちの学生みんなが
私のポスターをよーく読んだものだ、と言ったことだ。
その時には、私はすで卒業していなかったのだが、
私がいなくなった後に、彼女がポスターをプリントアウトして
貼ってくれたのだと思うと、とてもうれしかった。
彼女にしても、誇りに思える研究だったということだ。
それを聞いて、彼女に、「感動した、、」というと
写真を撮っとけばよかったわね!と。
うん、ぜひ、とっておいて欲しかった!
今は、偶然にもそのプロジェクトのフォローアップの研究を
彼女と日々行っている。ぜひ、出版にまでこぎ着けたいものだ。