言語学者エラ
サバティカルでUCLAにきて、新しく仲良くなった言語学者は
ポスドクのイラン人のエラだけであるが、
初めて会った時からとても気が合い、今では大の仲良しだ。
私よりは年齢はずっと若く30代だと思うが、
とても素敵な女性だ。私が鳥問題で苦しんだり、
住むところを探すのに困っていた時も
とても心配してくれて気持ちに寄り添ってくれた。
宇宙とアリ
彼女は最近は、物理学のオーディオブックを
聴くのに凝っている。The Beginning of Infinityや
Conjectures and Refutationsなどがおすすめだというので、
私も聞いてみたいと思う。
宇宙の話を聞くと、自分たちがやっている
言語学なんて本当に、ちっぽけなことでそんなことに
振り回されるのは馬鹿らしくなるという。
我々の存在は、ちいさなアリみたいな(より小さな)もので、
宇宙に対してのアリどころか、科学の分野においての
アリみたいなものだと。
確かにそうだ、我々のやっていることより、
もっともっと直接人類の発展に寄与する研究はたくさんある。
それなのに、言語学を研究していてお金がもらえるだけで
ありがたいと、二人で語り合った。
人は自分の世界に集中すると視野が狭くなりがちで、
まるで自分のいる世界が全てのような気がして
苦しくなることがある。そういう時は、
宇宙からの視点を持つのはとても救われる。
自己肯定感の低さ
明らかに、私には、研究者としての自己肯定感低い。
たとえ一流大学に勤める学者でも、
そういう問題を抱えている人は多い。
常にもっとやらないと追われ、insecure(不安)なのだ。
どれだけのぼりつめても、常にまだまだだと思い、
結局、幸せにはなれないのだ。
ちなみに、その話はこちらの記事でも
でもそれは事実ではなくて、私たちが頭の中で
作り上げている妄想に過ぎない。考え方を変えるしか
この苦しみから逃げることはできないと、エラはいう。
今この状況に満足できないと、
どこまで行っても満足できないのだ。
知名度と引用されている数
大学の同僚に、自分の論文がどれだけ引用されているか、
どれだけその数が伸びてるかをしょっちゅう
確認しているという人がいた。それには、驚いた。
上から目線で申し訳ないが、omg.. Patheticな気がした。
でも、その話をマリアやUCLAの学者たちに話しても、
誰も驚かないのは、もっと驚きだ。当たり前のことなのか?
エラいわく、引用されている数が多い論文を引用しないと
いけなからしているだけ。
その人たちがみな、その論文を読んでいるとは限らない。
その学者が査読担当になるかもしれないし、
その学生が担当になるかもしれないから、
引用しているにすぎない。確かにそうだ!
大学院生時代に、ルイが私の名前を検索して、
私のウェブサイトやら論文がトップに出てきたのを見て、
とてもいいことだと言ったのを覚えている。
そういえば、高校の教員をしていた時の友人も、
自分の名前でときどき検索をかけて、悪いことがでてこないか
確認しているといっていた。
今の時代、そういうことも大事なのだろう。
話はずれたが、私は大学のその同僚とは違い、
あまり自分の知名度が気になるタイプではない。
業界で有名になると、査読やらなんやらで仕事が増えそうだし、
影が薄いことには満足している。
まあ、有名な方がいい仕事にはつけるだろうが。。
私の場合はそれが慢性的ストレスになり
体にも影響を及ぼしている。そのため、学者を辞めたい
と思うことがあるか、それは簡単なことではない。
その自己肯定感の低さをこのサバティカルの間に
克服したいと思っていた。紆余曲折あり、今では以前よりは、
かなりよくなっている気がするが、なかなか根は深い。
以前より良くなったのは、研究がすすんでいて、
自分にしかできないことがあると再認識できたためだろう。
しかし、なんといっても、エラの言うことに
とても救われているのだ。ちょっとしたセラピーセッション状態だ。
エラのセラピーセッション
小さい世界にいると、そこが全ての気がしてしまう。
しかも意味論や統語論専攻の私たちの場合は、
言語学界全体ではなく、見ている世界はもっともっと狭いのだ。
MITを含めたたった3つの大学だけからなりたつ世界だ。
でも、言語学部がある大学院は世界にいくつあると思う?
そしてそこから卒業した人の数はどれだけいる?
その中の私たちの立ち位置を考えてみてよ!とエラは私に言う。
彼女がいうことは的を得ている。
私たちよりずっと辛い状況にいる学者はたくさんいる。
自分が書いたものが一度も人に読まれることもなく、
フルタイムの仕事を手にいれることもできずに、
厳しい立場にいる人はたくさんいるのだ。
それでも、私たちは一握りの自分より上にいる人と
そして、UCLA, UMass, MITという
すごく小さいコミュニティーの同級生、
先輩、後輩、先生たちと自分を比べ苦しみ、傷つく。
それがどんなにばかばかしいことか!
私たちは、もっと自分を褒めないと。
自分の履歴書の内容を他の人の名前で書いてみてよ。
その人のこと、どう思う?すごいと思わない?とエラ。
アジア圏の英語のノンネーティブスピーカーで、女性が、
UCLAで博士号を取得し、レイはしかも
同時に子供を二人育て、本を出版し、
自分の研究を誇りに思うことができ、
ちゃんとした大学で教授の地位にあるのだ。
私たちはすでに多くのことを達成している。
ここにくるまでにやり遂げたことがたくさんある。
いい大学で博士号をとったということで、
私たちの博士論文は読む価値があるとみなされるし、
私たちがそれこそトップの大学を受ければ、
一応は検討してもらえるのだ。
確かに、そんな他人の名前の履歴書をみたら、
きっと、すごい人だと思うだろう。
すでにベースラインにはのっているのだ。
それでも、不安で傷つき落ち込む。
そんな私に、エラは繰り返し、「自分によくやってる、
ここまでよくがんばった」と声をかけろと言ってくれる。
そして、さらに、彼女はいう。研究がすべてじゃない。
人として、バランスが取れていること、人と良好な人間関係が築けて
友人がいることのほうが、すごい研究をするより
ずっとすごいことなのだと。
すごい研究をしているけど、性格が最悪なひとと、
研究はイマイチだけど、性格がいい人なら、どっちを選ぶ?
私は迷わず後者よ。とエラは続ける。
なるほど、、私も迷わず、そう言えたらいい。
いや、もちろん私も後者だが、一瞬迷う。
それくらい私にとっては研究は大きいのだ。
性格がどんなに悪くても、研究がすばらしければ
ひょっとしてそれでいいのではないかと、一瞬考える。
でも確かに、そんな人は、幸せではないだろう。
エラによると、有名になっても、たかが言語学界だけでのことだ、
物理学界では、誰もそんな人の名前を聞いたことなどないというだろう。
確かにそうだ。チョムスキー以外は、、と二人で大笑い。
エラがこういうふうに繰り返し言ってくれる。
彼女自身も自分に言い聞かせているのだろうと思うし、
とことん自分の気持ちと向き合い考えて
導き出した考えなのだと思う。
彼女がいうことはいちいちもっともだし、
今後は自分にも繰り返しそう言い聞かせようと思ってる。
そのうち、本当にそう思える時もくるだろう。
でも、残念ながら、まだまだその域には達していない。
職場ランキング
今の所属は、自分の身の丈にあった職場なのだと
言ってはみるが、UCLAの先輩や後輩がMITやUCLAなどで
教えているのを知っているだけに、
なかなか呪縛から逃れられないし、
今や退職金のことを考えるともう転職という選択肢もない。
音声関連のラボの部屋に、卒業生の顔写真と名前が貼ってある。
その写真の上に、「現在は、xxx大学で教えている。」という
表示がしてあるのに最近気づいた。
まあ、新しい学生を惹きつけるためには効果的だが、
私は、個人的にはとても抵抗がある。
当然、それをみた人は大学のレベルを比べ、
優劣つけずに顔写真の一覧を見ることは難しい。
メルボルン大学で教えている日本人の友人に愚痴ったら、
なんでそんなこと気になるの?レイだって、いい大学に勤めてるじゃない。
私なら全く気にならないけど、との返答。まあ、そうなのだが。。。
一層落ち込んでしまった。。。
人はなぜ、人と自分を比べてしまうのだろう。
切ない生物だ。全然、乗り越えられる気がしない。
まだまだ、未熟者である。
たった一人の意見に振り回されるな!
エラにいわれたことで、ささったことがもう一つある。
「たった一人からの評価を気にするな」ということだ。
不思議なもので、人には、どんなに多くの人に褒められても、
この人に評価されないと意味がない、と思う人がいたりする。
これが曲者で、親みたいなものだ。
私の場合は、それはマリアだ。長いことアドバイザーで、
博士論文コミッティーの委員長だったので仕方ない。
アドバイザーと学生の間ではよくあることなのだと思う。
しかも、今は一緒に研究もして、一緒に住んでもいる。
昔も今も、彼女からの一言に一喜一憂してしまうのだ。
エラいわく、「とてもよくわかる。でも、彼女は、
たった一人の人間にすぎず、学者としていつも正解なわけじゃない。
それに、彼女はチョムスキーじゃないんだから、、!」
その通り、ごもっとも。
マリアの評価がいつも正しいわけじゃない。
いや、きっと実際、多くの場合、全然正しくないのだろう。
ネガティブフィードバックをされ、落ち込んだときには、
いつもエラのその言葉を思い出し、マリアの言うことなんて、
気にすることはないと自分に言い聞かせてみる