UMass アムハーストでの講演

UCLA

統語論ワークショップでの発表

今回、マサチューセッツ大学アムハースト校の
ワークショップで発表させてもらうことができた。

発表自体はとてもうまくいったし、終わった後、
今回の講演は大成功だったと思った。
親友も「とてもわかりやすく、質疑応答も
うまく対応していた」と、 高評価。

講演冒頭の紹介

今回の講演の冒頭に、呼んでくれた教授が
私を紹介してくれたのだが、それにものすごく感動した。
それこそ、こんなふうに人に自分のことを覚えていてもらえたらなあ、
と。弔辞はこんな感じでよろしく、、と思うほどに。

忘れるだろうから、記録のために 記しておきたいのだが、
私の大学院修士号取得時からの経歴をのべてくれた。
修士論文のタイトルと指導教授たち、(やはり有名人だとこの点いい)、
そして、私の論文がよく 引用されているので、
私と知り合いになる前にすでに、私のことを聞いて知っていた、と述べた。

これは、自分がスピーカーを紹介する時に使えるので、
引き出しにしまっておきたい。本当かどうかに関係なく、
いい紹介の仕方だ。

さて、それから博士論文のタイトルとその指導教官。
そしてそれをもとに出版された本と、
ハンドブックにチャピター(章)があること。

加えて、私が今までに研究したトピックを、
くまなくあげてくれた感じだ。しかも、
分野が違う、その他のジェスチャーをはじめとする
心理言語学関連の研究についてまでも言及。

それを聞いていたら、自分、自覚していなかったけど
今までいろいろなことをやってきたじゃない。自分すごいじゃん!
と思った。 頑張ってないと思ってたけど、自分今まで、
子育てしながら、かなりがんばってきたんだ!

エラが自分の経歴を他人の名前のもとに
客観的に認識してみたらいいと言っていたが(その記事はこちら)、
その通りだ。時に、自分を客観視するのは、とても大事だ。

おかげさまで、その教授からの賛辞は、私のキャリアにおける
宝物になった。おしい、録音しておけばよかった。

発表の質疑応答

さて、発表だが、発表自体は上出来だったと思う。
しかし、質問に対する私の答えはいまいちだった
今振り返ると思う。

マリアに最近の人は違う分析・アプローチを取るのが流行りで
それについて言われるかもしれない。時間があればなぜ
新しいアプローチは
間違っているかが書いてある本があるので、
その本を読んでおくように出発前、言われていた。

結局時間がなく、本も読まずに発表にのぞみ、彼女が言っていたように、
もっと最新の分析を採用すべきじゃないか、、などの質問が結構あがった。

でも、考えてみると、それはおかしな話である。

普通、講演後の質問というのは発表した内容の分析を使って、
こういう場合はどう説明するか。またはこの点がおかしいのではないか
など、その発表している分析方法に関する質問、議論になる。

それが今回、全く違う、最近のはやりを採用したらどうか
といってきたのだ。もしも私たちの分析が現象を説明できない
のであればありがたいサジェスチョン(提案)である。
しかし、私たちの分析は、うまく現象を説明しているし、
最新の分析方法では、同じ現象を説明できない。

私たちのアプローチを根底から否定するコメントを
もらったわけだ。そして、反論すべきだったのに、
私はいわれるがままになってしまった感がある。

彼らのアプローチに比べると、我々のは、伝統的ではあるが、
シンプルなメカニズムを採用しており、応用範囲が広い。
つまり、多くの異なる現象を説明できる。

昨日マリアに彼女ならどう質問に応対したか尋ねた
結局は、言語をどういったモデルで説明したいのかという点において、
本質、前提が彼らとは違うことに
言及するしかない、との答えだった。

我々は、子供が言語を習得することから鑑みて、
なるべく、シンプルなメカニズムの組み合わせで文法を再現したいと考える。
必要とあらば、発声されないサイレント(無音)な形態素も容認する。

一方、彼らは無音の形態素は容認しない。
そして、彼らのモデルは一つ一つの現象をそれに
特化した定式(formula)を書くことでとらえようとする。

しかし、それはgeneralization(一般化)にかけてしまい、
言語というものを非常に複雑にし、言語の本質を
見落とすことにつながりかねないと私は思う。

どんなものも、語彙レベルに起因させれば
それで一応は説明がつくのと一緒だ。しかし、そうすると、
言語習得をする子供はそのすべての語彙情報を
丸暗記し使いこなす必要がでてくる。

小さい子供は驚く速さで言語を正確に習得する。
そんなことが子供達に果たしてできるのだろうか?
私もマリアもそういったアプローチは好きではない。

自分の学者としての直感を信じる

分析の細かい点についての質問に答えるのには慣れているが、
今回の研究を通じて、自分の信じる言語モデルのアプローチについて
考えさせられたり、それを言語化することが必要になった。

考えてみると、私には文法に関して強い直感がある。
直感的に好きなアプローチと嫌いなものとがはっきりしている。
そして、自分の直感はどう感じているのか、自分が信じられることは
何なのかを今回の研究で改めて考えさせられた。

自分の研究をさらに好きになれる、とてもいい機会になったと思う。

また、マリアが、現象のgeneralization(一般化)は変わらないけど、
分析のはやりは時とともに変わっていく、と言っていた。
その通りだ。それなら、はやりがどうとか、出版しやすいとかより、
自分が学者として信じられることに真摯に向き合い、
自分なりの分析を展開していく姿勢が大事だと思う。

それが、自分の研究を誇りに思えることにつながる。
なんやかんやいって、私は自己肯定感は低いが、
自分の研究はどれも(とりあえず統語論の分野のものだが)、
正しいと思うし、誇りに思っている。

そして、それは学者として、とても幸せなことである。

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